S顧問へのお礼

S顧問が亡くなられた。満83歳であった。
上場企業の元専務ということもあって日経新聞等に死亡広報が出ましたが、直腸癌の為となっていました。
高槻赤十字病院の緩和ケア病棟に移られたと聞いて12日に見舞いに行き暫く話す機会を頂きましたが、その同じ週の14日の未明に亡くなられました。

ホスピスに移られ覚悟はあったとはいえ、最後まで意識のハッキリされた患者さんにとっては、辛かったことであろうと察します。この病棟に移れば、もう娑婆に自宅に帰る見込みは無いと言われたのと同じですから。

でも見舞いに行った我々にとっては、延命処置を行わない普通 の姿で尾広池に面した部屋で横たわっていた姿は、何となく安心できるものでした。
先生は、言っておられましたね、4年前に先立たれた奥さんに「化けて出て来い、何時でも待っている」と言っているんやと、なかなか出てこん!「結局会いに行かんとすまんのかな」と笑っていましたね。

奥さんを自宅で介護していた姿を今も私はハッキリ覚えています。
口数の少ない奥様で一緒に北海道に旅行させて頂いた折に私と先生が食事のたびに喋っているのを横でニコニコと聞いておられた事をよく覚えています。
その旅行から帰ってから以降は、私が自宅へ伺わせて頂きますと何時もニコニコとお茶を出して頂きました。

私が、鹿児島の出身だと知って終戦を迎えた地である鹿児島に一度是非連れて行って欲しいと言われていましたが、結局私とは実現しないまま甥っ子さんと一緒に行ってきて永年の宿題が、片付いたと報告をいただき恐縮しました。
海軍の技術将校で終戦を迎え、多くの戦友を送り出し、失った場所にやっと行ってみる気になったと言っていたのを忘れません。

大正12年生まれの先生は、昭和20年の終戦の年は、満21か22歳です。戦争がもう暫続いていれば当然、最前線への特攻出撃は避けられず生きるか死ぬ かの瀬戸際で在ったと思われます。
それ故この年齢の方の心の底に有るのはやはり“感謝”の精神だと思います。

ゼネコンの大阪支店のトップとして部下達に大変厳しかった話は、何人かの知り合いの当時の部下の社員の方から聞いていましたが、私に対しては終生暖かくご指導いただき私も“感謝”の気持ちだけ持たせて頂いたことは、ありがたいことでありました。

晩年は、人生の相棒である奥様の介護を自宅で面 倒をみられハードなサラリーマン重役から解放された時間をそんな形で使えたことに関しても少しも苦にされず、淡々とされていましたが、奥様が亡くなられた時、私がへたなお経をあげに行くと思いの外感激いただきかえって恐縮してしまったことを覚えています。

人間関係の中で、振り返っていくつも共通の思い出のあることはありがたいことです。そして、人間は、死んだらどこに行くのかと言う事も実は、話し合ったことがあったのでした。
DNAの分析技術が進歩するに連れ“輪廻転生”の謎が解き明かされようとしていますよと言いますと、先生は「うん、それやったら女房を探しに行くよ」と笑われました。

S先生「ありがとう」そして「行ってらっしゃい」

2006.12.18