映画監督の大島渚さんが「人は弔いながら生きて行く」と書いていたのを思い出します。
きっと、生きていることを最も実感できるのが、弔いの場だと言いたかったのでしょう。
私も、過去に多いときは、年間最大60回程度、葬式に参列させてもらったことがあります。付き合いの幅が、それだけ広いという事でもありますが、永遠に続く人間関係はありませんし、どんなに付き合いをしていてもその関係は、何時か終わりを迎える事をその度に実感してきました。
日本の葬儀の場合、そのほとんどは仏式です。
キリスト教で賛美歌を歌う機会も何度かありましたし、献花して合掌だけする無宗教の方の経験もあります。
日本人は、無信仰で無信心とよく言われますが、日常的には新年の初詣以外、寺や神社に行かなくても知り合いの葬儀だけは誰も義理堅く出掛けて行く様に思われます。
多神教で先祖崇拝の風土が在る事も要因の一つだと思います。
キリスト教の日曜礼拝やイスラム教の一日五度の礼拝の様な習慣は無くとも葬儀には、律儀にお参りに伺います。
人の葬儀に何度も立会い、どんなに生き生きとした生活をし、活躍された方でも亡くなる現実を知っても、日本人で信仰に目覚める人は少ないように思います。
私も人一倍、お経を唱えたりする方ですが、信仰心とは別
の発声練習の様な感覚でやっています。
日本では、2006年現在、8年連続で自殺者が3万人を超えたと記事にあります。年間の自動車事故死者数1万人に比べ3倍です。
生活が豊かになった分、逞しさを失ったのでしょうか?
私の実母が肺癌で死ぬ数日前に、家族に対して「ありがとう」と言ったその言葉ほどに「お経」は、ありがたく聞こえてはきません。
一方分かり易い言葉は、人間の心を直撃します。
自分で唱えても、葬儀場で聞くお経もそんな風にありがたく聞こえてきません。
昨日、私共のお客様が亡くなられました。
1月に胃癌と診断され、余命3ヶ月と宣告を受けられていたそうです。
それ以降、自宅に帰えられて7ヶ月間ホームヘルパーさんや訪問看護の手助けを受けながら家族で最後まで看取られたそうです。
私の実母も自宅で死にましたし、同居していた家内の祖母も自宅で家族全員の見守る中で死んで行きました。
今は、病院で死ぬケースがほとんどだと思いますが、身近な二つの例に接して幸せな別
れを経験させていただいた経緯からもお客様のご逝去が恵まれたもので在った事をお悔やみにお邪魔させてもらい感じさせてもらいました。
人は、本来“家”で死ぬのです、と言うより死にたいと思います。
しかし、家で面倒を看れる程余裕のある家庭は少ない上、高齢化が拍車を掛けます。
身内の面倒は身内で見る、その器が“家”であったはずです。
介護保険の制度が充実している上、特別養護老人ホームやグループホームにデイサービスと家庭の外に社会で支える仕組みが出来、我々は本当は幸せなはずです。
それなのに自殺は多いし、社会には物騒な事件が多過ぎます。
施設が社会に存在しても、それを運営していくソフト(心)が要るように、家が出来てもそこで住む人達の思い遣りやそれを支える条件が整わなければ、幸せとは言えない様な気がします。
折角建築した“家”が、住宅ローンに追われてそんな余裕など無い内に人生が終わったと、ならない為に住宅取得にも適度な計画とゆとりがポイントの様に思います。
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