どこに基準を置くか?

以前大変お世話になった、故芝原健夫氏が医療器材販売会社のベストセールスマンを辞めて今から30年程前に月収60万のサラリーマン生活から独立開業し、奥さんに10万を渡して「今月からはこれだけで生活してくれ」と言った時「これではとても生活していけません」と返ってきた答えに対して「それではいらんか?」と返したと言う話を昔聞いたことがあります。

団塊の世代の定年退職の始まる“2007年問題”が話題になり、巷ではTVのドラマ“熟年離婚”が評判となりました。
若くて元気な時に独立出来た人は、家庭的にも強気に出れても定年後の夫婦の生活は、そうは行かないのが現実でしょう。
金の切れ目が縁の切れ目で長年の相棒から冷たくあしらわれると言う話は、寂しく感じられますが、この世で一番難しいのが“男女の仲”。
人生で一番楽しくもあり一番辛くも在るのが男女の生業です。

私の知人に奥さんに先立たれてそれから大学院に入り勉強をしている男性がいます。
娘さん二人も既に社会人となり、マンションのローンも終わり生活条件には恵まれているとはいえ、聞くと収入は月15万だそうです。
車は既に持っていないし、通学は自転車、外食は滅多にしない自炊生活、まあそれで特に不自由はないと言います。
一人生きて行くのにいくらあれば生活して行けるかは自分で決められます、しかし少なくともその反面 の定まったその収入をどう安定させていくかは、実は難しい。

芝原さんの話に戻ります。人は、収入が半分になったとか、三分の一になると言うのは、それ以前の収入によっても多少条件の違いはありますがイメージ出来ても、六分の一と言う激減は、心理的に奥さんには容認出来なかったのでしょう。
芝原さんが言います「10万より少ない収入で生活している人は世界中でなんぼでもいる」「物価が違うでしょう?」「地球上には、一日$1で生活している人が、20億人もいる、我々の生活費の方が非主流や、何も1ドルで生活しろと言うのと違う、月10万でしてくれと頼んでいるのや」 生活の基準を国際比較する場合、日本は既に先進国の仲間ですから後進国や発展途上国と比較する事は不合理と考えがちです。
しかし、65億と言われる地球上の人類全体の生活水準と照らし合わせることは別 に無理があるとは考えられません。
先ず、主流の生活状態と比較して我々が贅沢をしていないか、無駄 ・無理・ムラは無いかを点検し、無駄遣いの整理と確認をする事は意義があるはずです。
その水準を出発点にする事には、問題は無いでしょう。

当たり前になっていることにメスを入れて見直すそれだけでも効果 は出ます。
私も、家の車・会社の車は省エネルギー車に徐々に変えていく計画です。
使っただけ稼がなあかん循環ならば、なるべく使わない様にするこれは、基本です。
会社の近くのお客さんは、私の場合よほど急ぐ事が無い限り歩いていきます。
健康的な上に万歩計の歩数を稼げ、当然ガソリン代も節約出来ます。
芝原さんが言います。「収入がこれだしか無くなると当然その収入に合わせた生活になる」一月1円で生活することそれは、出来ません。しかし今までが、あまりにも工夫の無いムダな生活をしていたことに逆に気付かされる。箪笥に要らんモノが腐るほどあることが判る。出来るギリギリの範囲を設定すれば工夫次第で簡単に生活出来る様になると!

2006.4.6